放射線利用技術データベースのメインページへ

作成: 2002/1/7 伊藤 均

データ番号   :010230
炭疸菌の放射線殺菌
目的      :郵便物中に入れられた炭疸菌の放射線による殺菌処理
放射線の種別  :ガンマ線,電子
放射線源    :Co-60線源、電子加速器
線量(率)   :10-57kGy, 900Gy/h
利用施設名   :日本原子力研究所高崎研究所、ブルガリア・ソフィアのCo-60照射装置、4000D Co-60 of Mainance Ltd. (Waterlooville, Hants, UK)
照射条件    :室温・空気中、ドライアイス凍結下
応用分野    :郵便物の殺菌処理、包装材滅菌、香辛料等の殺菌

概要      :
 炭疸菌は好気性有芽胞細菌の一種であり、食中毒菌のセレウス菌と近縁種である。有芽胞細菌の胞子は耐熱性が強く、乾燥下で完全殺菌するためには180℃・1時間の加熱処理が必要である。炭疸菌はセレウス菌と同じような放射線感受性を示すならば、粉末状態では約20kGyで完全に殺菌できる。ブルガリアやオーストラリアの報告で、乾燥下の炭疸菌胞子を完全殺菌するのに必要な線量は15〜20kGyである。イギリスの報告では、完全殺菌線量は41.5kGyであるが、これは凍結・グリセリン添加下の滅菌であり乾燥粉末菌体とは条件が異なる。

詳細説明    :
 
1.炭疸菌の分布と病原性
 
 炭疸菌(Bacillus anthracis)は耐熱性の胞子(芽胞)を形成する好気性有芽胞細菌の仲間(Bacillus属)であり、胞子の大きさは約1μmである。炭疸菌は広義にはセレウス菌(Bacillus cereus)の仲間であり、Bacillus属の中では大きな細胞を形成するグループに属している。一般的に、細菌胞子は乾燥下では休眠状態にあり、数年にわたり生存可能である。熱には強く、水存在下では100℃で30分以上の煮沸が殺菌に必要である。乾燥下で完全殺菌するには180℃で約1時間の熱処理が必要である。セレウス菌は土壌や香辛料などに広く分布し、しばしば食中毒の原因になる。このセレウス菌は傷から侵入すると化膿するが、炭疸菌のような重傷にはならない。
 
 わが国では炭疸菌はきわめて少なく、家畜などの病気はほとんど発生していない。炭疸菌はパキスタンからトルコにかけての中近東諸国に多く分布しており、東南アジアやアフリカ、中南米等にも広く分布している。炭疸菌は多くの場合、羊などの家畜で発症する。人間にも感染し、経口感染と呼吸器感染は重傷で死亡にいたるケースが多い。多くの感染は傷口からの感染であり、菌が皮膚に付着しただけでは発症しない。炭疸菌による発症には8千から1万個の菌数が必要とされているが、体力の衰えた病人や老人、幼児では100個以下でも発症する可能性がある。
 
 炭疸菌やセレウス菌は細胞外に粘性物質を産生する株が多く、胞子を飛散しやすくするためには蒸留水で充分に洗浄するか酵素処理をする必要があろう。大学などの微生物研究施設ではクリーンルームや遠心分離機、真空乾燥器などを備えているため、約100億個の胞子粉末を容易に作ることができる。炭疸菌は生物兵器としては強力でないが、ペスト菌のようにノミやネズミなどの小動物を使用し、あるいはウイルスのように噴霧する必要がなく、手紙により特定の場所や個人を攻撃でき、簡易に製造できるという特徴がある。
 
 
2.炭疸菌類縁セレウス菌の放射線殺菌効果
 
 郵便物などに入れられた炭疸菌胞子の乾燥粉末を殺菌する方法として、エチレンオキサイドガス燻蒸やマイクロ波処理、放射線処理が考えられる。しかし、エチレンオキサイドガス燻蒸は6〜16時間の燻蒸が必要であり、バッチ式のため処理量が少ない。マイクロ波は温度が100℃以下のため1時間以上の処理が必要であり、しかも湿気が必要のため乾燥物の処理には適していない。
 放射線は乾燥物の殺菌にも有効で大量処理も可能であり、しかも紙の劣化もほとんど問題にならない。ことに、電子線の場合は透過力は小さいが連続的に大量処理が可能であり、郵便物の殺菌処理に適している。
 炭疸菌はセレウス菌の仲間であり、殺菌線量はセレウス菌と類似していると思われる。セレウス菌ATCC4342株と医療用具の滅菌(完全殺菌)指標菌Bacillus pumilus E601株の胞子を2%ペプトン+1%グリセリン水溶液に懸濁し、ガラス繊維濾紙上で乾燥した場合のガンマ線照射後の生存曲線は図1に示すようになる。


図1  ガラス繊維濾紙上でのB. pumilus E601(◆)とB. cereus ATCC4342(●)胞子のガンマ線感受性(ペプトン2%+グリセリン1%添加)。(原論文3より引用。 )


 また、同様にガラス繊維濾紙上で乾燥した各種有芽胞細菌を生存曲線の直線部分で90%殺菌するのに要する線量D10値と生存曲線の肩の大きさを示す線量Induction doseは図2に示すように菌種により大きな差が認められる。


図2 ガラス繊維濾紙に吸着・乾燥した有芽胞細菌胞子の放射線感受性(ペプトン2%+グリセリン1%添加)。 (原論文3より引用。 )


 滅菌指標菌B. pumilusの胞子はセルロース繊維濾紙上で乾燥するとペプトンやグリセリン等の添加物の有無にかかわらずD10値は1.6kGyである。ガラス繊維濾紙では胞子が集合した状態で乾燥され胞子内への酸素拡散性が低下するためD10値は1.8kGyに増加する。ボツリヌス菌(Clostridium boturinum)やB. megateriumの放射線耐性株S31株のD10値は2.0〜2.4kGyとB. pumilusより放射線耐性が大きいが、セレウス菌の多くはD10値が1.1kGyであり放射線耐性株でも1.5kGyである。セレウス菌と炭疸菌が同じような放射線感受性を示すとして、放射線耐性株のD10値1.5kGyとInduction doseを2kGyとして殺菌線量を計算することができる。すなわち、100億個の炭疸菌胞子を医療用具と同じ10-6個の完全殺菌に必要な線量は、2kGy + (10 + 6) x 1.5kGy = 26kGyとなり、医療廃棄物と同じ10-4個まで殺菌するには23kGy以下で十分である。バイオテロに使用された炭疸菌は粉末状態で乾燥されているため、セルロース繊維濾紙と同様に胞子はバラバラの状態で乾燥されておりグリセリン等を添加してあっても放射線保護作用はほとんど認められないため、実際のD10値は0.9〜1.3kGyと思われる。従って、15kGyでも十分に殺菌されるので、感染を防止する目的では10kGyでもよいであろう。なお、セレウス菌も添加物共存下・脱酸素下で照射するとD10値は2.0〜2.8kGyと推測されるので、完全殺菌線量は最大47kGyが必要なる。
 
 
3.炭疸菌の殺菌線量
 
 炭疸菌の放射線殺菌の研究はわが国では行われていない。ブルガリアのアルヒポフ等は炭疸菌胞子が自然乾燥された状態の皮革に付着されている場合、放射線殺菌するのに必要な線量は8〜12kGy、オーストラリアのホーン等は羊毛に付着した炭疸菌の殺菌線量は15kGyと報告している。ブルガリアのヨルドノフは5株の炭疸菌(2株は保存株、3株は動物等からの分離株)を寒天培地で培養し、胞子と栄養細胞を生理食塩水に1ml中約100億個になるように懸濁し、羊毛または皮革に添付・乾燥してガンマ線殺菌効果を調べている。この場合の試料片の炭疸菌数は10億個から100億個あり、放射線殺菌効果は図3に示すようになった。


図3 皮革上で乾燥した炭疸菌のガンマ線殺菌効果(ブルガリア)。(原論文1より引用。   ●:454株、811株  ○:Behring株)


 ヨルドノフの報告によると、用いた5株の間で放射線感受性に差が認められたが、20kGyで完全殺菌が可能と報告している。これらの結果はセレウス菌の結果と類似しており、炭疸菌とセレウス菌は同じような放射線感受性菌であることを示している。なお、炭疸菌に限らず微生物は完全殺菌に近い線量を照射されると細胞損傷の修復に時間がかかるため、照射後に生残している炭疸菌胞子の感染力は著しく低減するであろう。このため、10kGy程度の線量でも感染防止が可能であり、自然界に胞子が飛散しても生残する確率は著しく低下すると思われる。
 一方、イギリスのボーエン等は、炭疸菌をグリセリン約15%の水溶液に懸濁し、ドライアイス凍結下で照射した場合に完全殺菌線量は41.5kGyになったと報告している。

コメント    :
 図3の生存曲線は直線になっていないが、これは栄養細胞と胞子が混在しており、しかも、酸素透過性の良い状態の細胞と透過性の悪い胞子が共存しているためであろう。
 米国での炭疸菌テロではエームス株が使用されたと報告されており、米国内でのバイオテロ対策の研究にも使用されている菌株の一つである。ボーエン等の研究ではエームス株とスターン株が使用され、1ml当たり約10億個の胞子を含む水懸濁液にグリセリンを約15%になるように加え、ドライアイス凍結下・線量率0.9kGy/hで照射している。その結果、10億個の胞子を完全に殺菌するには約36kGyの線量が必要であり、完全殺菌線量は41.5kGyと報告している。ボツリヌス菌でも凍結下では著しく放射線に耐性になることが報告されている。また、グリセリンは凍結下で細胞を保護する作用があるだけでなく、フリーラジカル捕捉作用もあり、15%濃度でしかも凍結下では放射線耐性が著しく増加するのは伊藤の研究でも明らかである。したがって、ボーエン等の結果を郵便物中の炭疸菌殺菌処理に用いるのは適当でないと思われる。事実、炭疸菌テロ事件後に米軍関係でエームス株の殺菌線量を調べたところ、約20kGyで不活性化できたとの非公式な報告があるようである。
 これらの各報告を総合的に評価すると、約20kGyで郵便物中に混入された炭疸菌胞子を完全に殺菌でき、10〜15kGyで感染防止が可能と思われる。
 郵便物を放射線で殺菌する場合、郵便物に入れられる可能性のある医薬品や写真フィルム、半導体素子、植物の種子等の変質や機能損失が問題になるであろう。郵便物を大量処理するには高エネルギーの電子加速器が適していると思われる。一方、炭疸菌は香辛料等の輸入食品にも付着している可能性があるため、絶対的な完全殺菌は必要ないと思われる。

原論文1 Data source 1:
I. Yordanov
Gamma-ray decontamination of pellets and wool infected with the spore of Bacillus anthracis (Article in Bulgarian)
Central Veterinary Institute, Sofia, Bulgaria
Veterinary Science, 14(8), 14 - 19(1977).

原論文2 Data source 2:
Inactivation of Bacillus anthracis vegetative cells and spores by gamma irradiation
J. E. Bowen*, R. J. Manchee**, S. Watson** and P. C. B. Turnbull*
* Anthrax Section, Centre for Applied Microbiology and Research, and ** Medical Countermeasures, Chemical and Biological Defense Establishment, Porton Down, Salisbury, Wiltshire, UK
Salisbury Medical Bulletin・Special Supplement, No. 87, 70 - 72(1996).

原論文3 Data source 3:
照射細菌芽胞の耐熱性変化
伊藤 均
日本原子力研究所高崎研究所
食品照射、36(1,2)巻、1 - 7(2001)。

原論文4 Data source 4:
乾燥食品等の形状および成分の放射線殺菌に及ぼす影響
良本康久、伊藤 均
日本原子力研究所高崎研究所
食品照射、36(1,2)巻、8 - 12(2001)。

参考資料1 Reference 1:
大腸菌及び関連細菌の放射線感受性に及ぼすフリーラジカルと培養基の影響
伊藤 均
日本原子力研究所高崎研究所
食品照射、35(1,2)、1 - 6(2000)。

キーワード:炭疸菌、セレウス菌、耐熱性細菌、胞子(芽胞)、ガンマ線、電子線、放射線、殺菌、郵便物、バイオテロ、生物兵器、粉末
Bacillus anthracis, Bacillus cereus, heat-resistant bacteria, spore (endospore), gamma-ray, electron beam, radiation, inactivation, mail, bio terrorism, biological weapon, powder
分類コード:010401

放射線利用技術データベースのメインページへ